アーカイブは正しい歴史を伝えるためのベースに【先進企業に学ぶ企業アーカイブの取り組み(8)】

アーカイブは正しい歴史を伝えるためのベースに【先進企業に学ぶ企業アーカイブの取り組み(8)】

アーカイブがないと成立しない産業遺産

先ほど、産業考古学会云々と言いました。
産業考古学は産業遺産を対象にして、見て喜んだり研究して、論文発表したりする学問です。
産業遺産とは、過去の人間の生産活動の結果残された有形の記録資料の総体を言います。
建物もそうですし、資料とか写真などといったものがなければ研究になりません。
つまり、アーカイブがないと成立しない学問なのです。
そうした資料を我々が集めるわけなのです。
たかだか100年のものが今、どんどん分からなくなっています。
日本に産業考古学が入ったのは昭和52年なのですが、発祥の地はイギリスです。
産業革命発祥の地です。
アイアンブリッジ峡谷などが世界遺産になっていますが、日本では今年、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産になったでしょう。
まさに近代の遺産です。
その前は、「明治日本の産業革命遺産」がありました。
それから「富岡製糸場と絹産業遺産群」がありましたし、「石見銀山遺跡とその文化的景観」があります。
こうした産業遺産が研究対象です。

ではどういうことを行なってきたかと言いますと、ここに持参した『トヨタテクノミュージアム 産業技術記念館 ガイドブック』は、産業考古学会が中心になって作った、アーカイブをもとにした本なのです。
名古屋の駅から歩いて10分くらいで行けるところにトヨタ産業技術記念館があります。
これは、その最初のカタログなのです。
現在まで版を重ね、改編しながら使われているのですが、これを作るとき、産業考古学会がトヨタ財団から依頼をいただき、記念館の設立の準備とカタログの編集をしました。
トヨタ財団とは約40年前からお付き合いがあります。
ご案内のように、トヨタ自動車の前身は豊田佐吉の自動織機です。
ですから、どういう資料を集めたらいいか、織機と自動車をどう分類して集めていくか、それだけではなくて、どういった社会的意義を持たせるのかなどを一緒に考えました。

この写真が旧紡績工場です。
レンガの建物があるでしょう。
これは「塵突」です。
煙を出すのは煙突です。
「塵」と書くのですが、紡績工場は糸くずが充満しますから、それを外に吐き出す役目を果たすのが塵突です。
塵突は紡績工場の象徴的な部分なのです。
ですから、塵突は残さないといけない。
のこぎり屋根の工場がありますが、それはどこまで残すか。
煙突は8角形で造られています。
8角形の煙突はどこまで残すのか。全部残したら倒壊の危険があるが、基礎の部分は残さないといけない。
そういった一つ一つの検証をして、その価値がどうであるかということを考えながら、案を作っていきました。

さらにラッキーだったことがあります。
特許庁が当時、資料を大量に廃棄することになり、廃棄資料をどこか引き受けませんかという打診がありました。
そこで、豊田産業技術記念館が全てを引き受け、保存することにしました。
これが今、たいへん役に立っています。
岡山には、錦莞莚があります。
明治時代の岡山を代表する輸出品として重宝されました。
茶屋町は「今神戸」と言われるくらい華やかだったと言われていますが、その錦莞莚の特許に関する資料もその中にあったのです。
それがなくなっていたら、錦莞莚の魅力が半分しか分かっていないかもしれない。
ですから、何でも捨ててはダメなのです。
油絵の絵の具はキャンパスからだんだん浮いてきて、クラックができて落ちてくるのです。
はく落するのですが、美術館ではそれを絶対に捨てません。
修復はいつでもできるので、必ず全部取っておきます。
絵画の修復をするときと同じなのです。
ですから、企業の方々がいろいろお作りになるもので、まったく無駄なものなどないと思います。
とっておいたから、生かすことができたというものがたくさんあります。
豊田の工場も、壊されなかったから活用できたわけです。

その典型的な例が門司港です。
門司港レトロ地区に、今では年間200万人が来ます。
もともとは下関と門司を結ぶ一番の中心地だったのですが、経済の中心が小倉、博多に移ると、門司は寂れてしまいました。
門司港の洋風建築や西洋建築の取り壊しが始まったとき、役場のある方が、「ちょっと待てよ。これを壊していいのかな。もう再現できないのではないか」と保存運動を始め、整備されたのが、門司港レトロ地区なのです。
門司港駅はもうすぐ改修が終わるのですが、駅舎を建てたのは実は岡山の菱川吉衛ですが、そういうことも意外に知られていない。
もしあの建物がなかったら、菱川が九州で鉄道敷設をしたとか、門司港駅を建てたということも分かっていないかもしれない。
門司港レトロ地区には重要文化財や登録有形文化財もあります。
もしも早々と壊されていたら、日本の文化がなくなってしまっていました。
そういうことを懸念して我々は、トヨタさんに、残すものと、やはり残せないものもありますから、それをどう区別するのか、残せないものはどう残していくのかという話しをしながら、記念館を造る協力をさせていただきました。

こうした資料も整理して保存しなければ

こうした資料も整理して保存しなければ

全国的視野で徹底的に調査・収集・保存、体系的に整理

次は、『小野崎一徳写真帖 足尾銅山』です。
足尾銅山のお抱え写真師だった一徳さんの写真を、お孫さんの小野崎敏さんがお集めになりました。
小野崎敏さんは、足尾で生まれて日鉄鉱業の社長を務めた方なのですが、祖父の一徳さんが写真家だったということは聞いていたようです。
しかし写真を見たことはなかった。
社長を退任するころに、東京神保町の古本屋に写真が並んでいたのです。
それ以来千点ほどを自費で購入しました。
それを、NHKと組んですべてデジタル化して作ったのがこの写真集です。
一徳アーカイブがありましたので、例えば鉱毒事件のときはどうだったのか、田中正造がどこに写っているのか、そのときにだれが来たのかといったことも証明できます。
鉱毒事件を自社で全て解決したのは、足尾だけです。
その装置がどこに造られたのか。
亜硫酸ガスが流れるために、山の上に測候所を造った。
測候所は日立などでも造っているのですが、その写真が残っているのは足尾だけなのです。
こういった記録は貴重です。
『小野崎一徳写真帖 足尾銅山』は、一般の書籍店にも置いてあるのですが、足尾歴史館でも販売しています。
この業界ではかなりのセンセーションを巻き起こした写真集です。

一徳さんが写したこの写真に写っている人は、ほとんどが北陸の福井から来ている。
なぜ福井と足尾に関係があったのかということも、今、解明されつつあります。
足尾銅山で最初に見つけられた大鉱脈のある山は、備前楯山と呼ばれます。
備前の百姓の治部(じふ)と内蔵(くら)が鉱脈を見つけ、日光の座禅院が、備前から来たから備前楯山と付けようと命じたというのです。
ですから、備前と足尾には重要な関係があるのですが、この治部と内蔵が何者かというのは全然分かっていません。
これから解明なければならないのですが、岡山には資料がありません。
池田家文庫にもありませんでした。
たかだか100年前のことが分からないのです。
もしそこに光が当たったら、また新しい歴史の展開もあると思うのです。
写真一つから分かってくることもあります。
治部と内蔵についてはまだ分かっていないのですが、産業考古学は結構役に立っていると私は思っています。

現在、『新修津山市史』の編さんにかかわらせていただいています。
ちょっと遅れ遅れになっているのですが、現在の『津山市史』よりも随分バージョンアップして、通史編で6巻、資料編で4巻と別巻での構成です。
別巻の民話だけは出たのですが、私は近代第4巻の交通と近代化遺産を担当しています。

編さんの目的です。
津山市は、津山城の築城400年とか、美作建国1300年で随分PRをして、ホルモンうどんなどでも有名になり、脚光を浴びるようになりました。
それで、もう一回編さんし直そうということになり、歴史を研究されている方々が集まって編さん委員が構成されました。
津山市に関係するものなのですが、ここが大事なのですが、「この機会に、全国的視野で徹底的に調査・収集・保存、体系的に整理することで、今後の資料の散逸を防ぎ、その活用を図る」としています。

資料が散逸したらなかなか手に入りません。
私は美術館に勤めたことがあるのですが、美術館は絵画が欲しいのです。
例えば、絵画とセットで画家の手紙とかがあっても、意外に皆さん欲しがらない。
絵があればいいと言うのです。
本当は、その手紙が重要なのです。
その手紙が散逸してしまったら、二度と手に入りません。
そうした文書は随分たくさんあります。
古本屋や古紙回収業者から回収したものもたくさんあるのです。
そうした資料も市史編さん室に集まっているのですが、それを見ていくことによって新しい歴史が分かります。

市史や県史の編さんにも大きく役に立つアーカイブ

そして、「時代の変化に対応していくため、地域の過去の歩みを明らかにすることによって、もう一度現在を見つめ、そこから地域の住民の進むべき未来を見通す」、まさに温故知新がここにも書かれています。

市史編さんの対象は津山市なのですが、津山市は合併して大きくなっていますので、旧市域や津山に関する美作圏域全体にわたっての研究をして、ミクロだけではなくマクロで歴史を見ましょうということが方針として出されています。

編さんの基本的な考え方には、学術的に高い水準にということが書かれているのですが、「根拠となる資料を確実に追跡できるように心がける」というのが、実は我々に課せられた大きな命題なのです。
どういうことがあるか、残りの時間でお話をさせていただきます。

集めた資料が今、5万点から6万点あります。
それをこれからどうするか。
すべてデジタル化することは、もう時間的に困難です。
津山の資料の中でデジタル化が一番進んでいるのが、津山の江見写真館が保存するガラス乾板です。
ガラス乾板が記録した対象には肖像写真や記念写真に多いのですが、乾板は、一度写して役目を終えたら業者が回収して、もう一回ガラスを新しくして撮影前の状態に戻し、再び写真館に納めるということをしていました。
ですから、乾板自体が残っているのは非常に珍しいことらしいそうです。
江見さんは、たぶん経済的余裕もあったのでしょうし、やはりアーカイブということに随分関心が高かったと思うのですが、まったく回収に出しておらず、すべて残したようです。
それが『古い津山の写真集』として、岡山県立図書館にも入っています。
それを見ていただきますと、当時の津山の町がどうだったかというのが分かります。
600人写った記念写真があるのですが、拡大したら一人一人の顔が分かるのです。
「これ、私のひいおばあちゃん」という人が出てきたりするのです。
津山は、その江見さんのデジタルアーカイブを機に、やはり保存のあり方についてもっと考えなければいけないということになったようです。
それらの収集データはすべて、津山郷土博物館が主体となり、津山洋学資料館と二機関が市史編さん事務局となって、我々執筆者に情報提供してくれています。

アーカイブは、市史の編さん、町史の編さん、または県史の編さんにも大きく役に立ちます。
我々はいろいろなことを勉強します。
例えば、近代化遺産で銀行だったところの建物はどうなんだと。その建物にどういう意匠が施され、建築様式や工法がどうなのか、レンガがどこで焼かれたなどということだけでなくて、経営はどうだったか、どのように経営者が変わっていったのか、経営者が別の病院の経営に関係したことから、こういう病院建物もできたなどなど、そこには人の歴史があります。
そういったものが出てきませんと、市史の役割が半減してしまいます。

市史編纂にも役立つアーカイブ

市史編纂にも役立つアーカイブ

アーカイブは正しい歴史を伝えるためのベースに

ここにいろいろと資料を持って来たのですが、時間の関係で、津山市史で分かったことをもう少し説明させていただきます。
今、私の手元にあるのは、明治20年ころの新聞のファイルです。
主に鳥取県と大阪で集めた記事ですが、なぜこんなものを集めたのかを説明します。
山陽線が岡山にやって来たのは明治24年ですが、明治20年9月20日、松江に鳥取と島根の県議が集まって、山陰から津山を通り岡山に至る鉄道を計画した。
これが、陰陽連絡鉄道の最初であるということが言われていたのです。
これは『鳥取県史』にも書かれています。
我々、鉄道の歴史を研究する者は、それをうのみにしていたのです。
私も本などに書いてしまったのですけれど、津山市史を編さんするにあたって、この出典はどこなのだろうと調べても分からないのです。

もしかしたら新聞にあるのではないかと思って、鳥取や島根の図書館に何回も通いましたが、やはりないのです。
そして島根県立図書館で見つけたのが、朝日新聞の報道を否定する山陰新聞の記事でした。
朝日新聞が神戸通信でこう伝えているけれど、これは事実誤認だと書いていたのです。
そのころの新聞記事を読んでみたのですが、朝日新聞以外に陰陽連絡鉄道のことを書いたものはありません。
今度は朝日新聞を調べるために大阪市立図書館に行きました。
その記事のコピーがここにあるのですが、神戸通信には具体的な数字を入れた記事が載っているのです。
しかしその後は、朝日新聞も鳥取新聞も山陰新聞も、陰陽連絡鉄道のことはまったく書いていません。
もっとも、新聞社が鉄道に関心がなかったかというとそうではなく、地方における鉄道敷設や、自社の鉄道論なども展開しているのです。
今度は岡山県立図書館や岡山県立記録資料館で山陽新報を閲覧しました。
明治22年5月29日付に、山陽鉄道の支線を津山に敷こうというという記事がある。
それから陰陽連絡鉄道の記事が増えてくるのです。

今まで我々がうのみにしてきたものは、あるいは、政治的なことから書けなかったことかもしれないので、あながち間違いとは言えないのですが、ただ、客観的に見るとそうではないということが分かってきました。
ですから、徹底的に資料を調査することがいかに大切かということが、よく勉強できました。

明治22年に陰陽連絡鉄道計画が具体化するのですが、そのとき、逓信省か帝国工業から来た小田川全之技師のニュースが新聞に登場します。
小田川技師のことは、岡山ではそれ以上分かりませんでした。
しかし、先ほどご覧いただきました小野崎一徳さんの写真集を求めた足尾歴史館に行きましたら、小田川全之のコーナーがあるのです。
しかし、岡山に来た明治22年のころの歴史は全然書かれていない。
それで、その直系にあたる97歳の方と横浜でお目にかかり、いろいろ情報交換をしたら、岡山に来た小田川全之と古河鉱業の小田川全之は同一人物であることが分かりました。
それから岡山にはない資料と付き合わせてみたら、いろいろなことが分かってきました。
これは、市史調査の成功例かもしれません。
100年前のことが分かっていないのですが、それによって、だんだん新しい歴史が分かり始めました。

総社市の鬼ノ城は空想から復元されています。
近代のものは、今のうちに歴史を調べておけば、将来あんなことをしなくて済むと思うのです。
アーカイブは、正しいものを後世に伝えていくという基本のところが一番大切な手段だということがよく分かります。
資生堂がエンドユーザーにまで呼びかけて資料を集めたというのは、正しい歴史を伝えるためのベースになるアクションではなかったかと思います。

非常にとりとめのない話になってしまいましたが、持ち時間の50分を少し過ぎてしまいました。
アーカイブにおいては、伝えるということが非常に重要です。
それは、一つにはブランドイメージを上げる、企業イメージを高めるということにもつながりますので。調べていって、正しい歴史を正しく伝えていくということが、やはり非常に重要ではないかということが、学会の活動や市史の編さんから身をもって感じたことです。
ですから、今後アーカイブに取り組む方がいらっしゃいましたら、まずは正しい歴史をちゃんと踏まえることから、ぜひお始めいただきたいと思います。

以上です。ご清聴いただきましてどうもありがとうございました。

 

産業考古学会理事/Business Archives Lab.主任研究員
小西伸彦


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